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「推力一七〇〇キログラムのヴァルターHWK509A-2ロケットエンジンを装備した、小柄な無尾翼機Me163Bは、最大速度九六〇キロ/時、高度一万二〇〇〇メートルまで三・五分という驚異的な高速機だった。だが、航続時間わずか七・五分。そのうち戦闘時間が三分前後では十分な活動はできない。さらに降着装置が特殊で安定度が低いうえに、高い腐蝕性を有して爆発しやすい薬液燃料を用いるため、離着陸は危険をきわめた。一九四四年十月七日に失った三機、パイロット二名は、いずれも故障と事故が原因だった。

Me163による敗戦までの合計戦果は、一六機あまりにすぎず、反対に事故などによる損失機数ははるかに多い。一九四四年四月から翌年の二月までに失われた第400戦闘航空団第I飛行隊のMe163は、公式資料の残っているぶんだけでも大破を含め四〇機に近い。そのうち被弾が直接の原因と判定されたのは三機だけ、残りの大半は事故によるもので、滑空着陸の失敗が目立った。」

 

「ジェット戦闘機Me262」(渡辺洋二) 141頁

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“...
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「当時、使用中のドイツのレーダーはいずれも妨害しやすいメートル波で、『鹿の角』とあだ名された四本の支持架とアンテナの組み合わせがいかつく機首から張り出していた。すでにマイクロ波を実用し、機首に収まるコンパクトな皿形アンテナを使う英空軍に対し三年の遅れがあった。この一九四五年一月に、H2SをコピーしたFuG240/1『ベルリン』N-1aがようやくJu88-7cに引き渡され始めたところだった。

FuG218を装備したMe262B-1a/U1の難点は、複雑化した胴体、レーダーアンテナとその支持架のための空気抵抗が強まり、最大速度が六〇キロ/時ほど低下することだった。しかしそれでも水平飛行で八一〇キロ/時の快速は、レシプロ機の比ではなく、『モスキート』をらくらくと補足できる。昼でも夜でも敵戦闘機に勝る史上初の全天候戦闘機ができ上がったのだ。

ただし夜間の敵発見は昼間にくらべてずっと困難なうえ、英重爆の大編隊は間隔をとって延々と続いてくるから、少しでも長く飛べることが肝心だ。昼戦型A-1aよりも機内燃料容量が八四〇リットル少ないB-1a/U1にとって、機首下の三〇〇リットル増槽二個は、練習機型B-1a以上に必需品と言えた。」

 

*敗戦後接収されたMe262B-1a/U1。
機首下部に300リットル入り増槽を2個付けている。

「ジェット戦闘機Me262」(渡辺洋二) 206~207頁

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「Dデー一日目から二つの人工桟橋の建設が開始された。この設備は非常に複雑で、建設とイギリス海峡曳航のためコストが高くついたにもかかわらず、期待に添わなかった。特にイギリス軍のそれは、構造物の四〇%が懐中に没してから、ようやくノルマンディに到着した。そのため機能は著しく期待を下回った。アメリカ軍の人工桟橋はとにもかくにも無傷で到着したが、ほとんど稼働を始めないうちに台風で水浸しとなり、風に吹かれて文字通りバラバラに分解してしまった。

とどのつまり上陸援護に最も役に立ったのは、閉塞船の利用という昔からある工夫だった。人工桟橋という複雑で高価な設備の大部分は、上陸地点に破片を散らかし、船の航行を危険にさせた。他の作戦と同様、ここでも『オーバーロード』作戦の立案者たちは、ヒンデンブルクの金言、すなわち『戦争では単純さがのみ勝つ』という言葉に、明らかに反したのである。」

 

*三枚目の写真は一九四四年 六月六日 フランス アロマンシュ
 (June, 6, 1944, Furance Arromanches)

「Supplying War」(Martin Levi van Creveld) 350頁

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1963年、

それまでの、

建築物の高さは、31メートルまで、

という高さ制限が撤廃され、

容積制限へと切り替わりました。

.  

これを受けて、

東京海上ビルディングは、

地上32階、高さ130メートルの、

日本最初の超高層ビル計画として構想されました。  

.  

設計した前川國男は、

この、高さ制限から容積制限への移行を、

このように捉えました。  

.  

「高くするのは結構、

 但し、躯体を引き締めて足許の大地は開放しなさい、

 というのが法の本来の趣旨」である、と。 

.  

そして、この東京海上ビルディングでは、

超高層を実現した上で、

その足許の、地上部分は、

敷地の実に3分の2を、

公共性のある広場として、

市民に開放しようと考えました。  

.  

また、窓を、

格子状の外壁の奥に入れることで、

窓と格子の間に、避難のための廻廊をつくり出す。  

.  

さらに、

その廻廊によって、

万が一、火災が起こっても、

上階への延焼を防止する。  

.  

そして、

そうした公共性や安全性への取り組みは、

東京駅の外観とも呼応しているという、

印象的な、赤みがかった煉瓦色のタイルの格子が、

まるで浮き上がって見えてくるような、

彫りの深い、独特の存在感のある佇まいによって、

新しい都市景観をつくり出すことと同時に、

実現することを目指していました。  

.  

そのように、

考え抜かれた計画であったわけですが…。 

.  

お濠端で、皇居を見下ろすような超高層ビルは、

美観上、いかがなものか、という、

いわゆる「美観論争」をはじめとした紛争へと巻き込まれ、 

ついには、時の総理大臣までが絡むことになるという、

政治問題へと発展してしまいます。 

.  

そして、

1965年に届出が出されてから、

およそ5年後。  

.  

結局、

地上25階、

軒の高さ100メートル以下にビルの頭を削る、

というかたちで認可され、着工。 

.  

1974年、

計画着手から、およそ10年の歳月を経て、

ようやく完成することになります。  

.  

この間、

そうした論争や政治問題の渦中で、

前川國男は、

自らの信ずる理念への理解を求めて、

自主的に、7度にわたってパンフレットを作成し、

各所へ配布するなど、

一歩も引くことなく、闘い続けたといいます。  

.  

最終的には、

ビルの頭は削られることになりましたが、

平面計画を変更することはせずに、

敷地の3分の2を、広場として開放するという、

当初の理念を守り通すかたちで、

合意することになりました。  

.  

この問題、

宮内嘉久『前川國男 賊軍の将』を読むと、

以下のように指摘されています。  

.  

「マスコミも、表面上の問題に目を奪われて、

 これを『皇居前美観論争』と名付けて大々的に報道した。

 しかし、

 事の本質は『美観』でもなければ『高さ』でもなく、

 皇居前都心部空間の在りように関わっていたのである。

 その認識を欠いた、世のいわゆる『文化人』も」、

「高さや美観をあげつらう踊りを踊った」…。 

.  

なんとなく、

「高さ」や「美観」等という、

分かり易い問題として捉えてしまいがちですが、

この指摘には、

確かに、説得力があるような気がします。  

.  

だって、

その時に、このビルに反対していたはずの方々が、

この問題が決着すると、こぞって、

さも当然のような顔で、

同じか、あるいは、もっと高いビルをつくり始めましたから。  

.  

そんな姿を見ると、

「高さ」も「美観」も、

やっぱり、関係なかったんですね、

と考えるしかないですよね。  

.  

それにしても、

そのように、10年間にわたって、

真っ正面から、愚直に闘うことで、

やっと獲得したはずの、

この建築の姿はどうでしょうか。 

.  

廻りの建物の中で、

このビルだけが突出することが、

美観上、問題であったはずなのに。  

.  

今では、この通り。    

そんなに高くありません。  

.  

でも、志は,

間違いなく、一番高い。

. 

http://knakama.seesaa.net/article/401606219.html

.  

出典: facebook.com