さらにこちらでは
「認識ひとつで世界は変化するものなのです。世界はたしかにここにこうして実在しておる。しかし現象的なレベルで見れば、世界とは無限の可能性のひとつにすぎんです。細かく言えば、あんたが足を右に出すか左に出すかで世界は変わってしまう。記憶が変化することによって世界が変わってしまっても不思議はない」
東海道新幹線の掛川から在来線に乗り換えて、浜松に向かって行くと2駅目が袋井である。
駅の出口は、片方しかない。
ここは、十数年位前に近くの会社に何回も来たことがあるので、よく乗り降りした。
最近、また、別の近くの会社に来るようになり、また、乗り降りをするようになった。
袋井というと思い出すのが、原信太郎氏のことである。それは1996年の日経ビジネスの巻頭言:有訓無訓に「組織に頼らず、自己流を貫け」という氏の次の談話からの連想である。太平洋戦争で日本が負けると思った原氏は、東京の住宅などの資産を処分し、得た金の大部分をドル(当時は、闇ルートは100円で17ドルとのこと)に換え、静岡県袋井市に逃げた。ここを選んだのは東京が破壊されても中心地であり続けるだろうという予測と、海岸から距離があるので米軍が上陸しても逃げられるという2つの理由であったという。
敗戦となって、円は急落した。氏は、大きな資産を得たことになる。この発想が奇抜なので、切り抜いて持っている。戦争が始まる前、氏は、日米が開戦したら、日本は負けると言った。そうしたら、クラスの全員から殴られたという。負けるという確信は、氏が持っていた国産車の車検整備を自分でやるため、整備工場に行ったとき、たまたま、フォードのエンジンを見て、その技術水準の高さに驚いたからであるという。潤滑油の差も歴然としていた。
こういう技術水準の国と、戦争しても負けると思わざるを得なかったのである。精神論では近代戦は勝てないからである。戦後は、奥さんの父親が創業者であるコクヨの初任給が7千円なのに、闇で月30万円稼いでいたという。働くことは嫌いで、人生は遊んで楽しく暮らすという人生観を貫いた人である。日経ビジネスに掲載された96年当時は、コクヨの専務を辞め、「原総合知的通信システム基金理事長」となっていた。
それ以来、10年ほどたった。袋井で氏を思い出したので、ご健在であるのか、インターネットで索引したら、Slownetの「いきいき大人見聞録」に4回シリーズのインタビューで登場されていた。その知的な多趣味はものすごい。まさに自由人である。そのせいか、今、84歳なのに、視力は両眼1.5、階段も2段とびであるという。特に健康法をしていないというが、これだけ、知的に自由奔放に人生を送ってきたら、ネガティブなストレスは皆無であろう。
原氏の祖父は、一代で身代を築いた。
その裕福な都内の家に生まれた原信太郎氏は、子供の頃からぜいたく三昧。近所のおもちゃ屋や駄菓子屋ではツケがきく(あとで祖母が払ってくれる)ので、信太郎少年は欲しいものを何でも手に入れることができた。外国製の鉄道模型も3歳のころから買い与えられ、これも生涯の趣味となったのでした。
幼いころから、こういう本能的・動物的享楽にどっぷりつかった生活なので、苦しい労働に追われてる大人にはなりたくない。
慶応幼稚舎4年のとき、算術で金利計算を習った信太郎少年は、祖父のところに行って、「おじいさん、ボクに○○円ください。その金利で一生働かないでも暮らせるでしょう。」とせがんで、うーんと叱られました。鉄道模型には自作するぐらい、のめりこんだ。その他、慶応高等部ではダットサンセダンを買ってもらい、その分解修理などで自動車大好きになりました。知人のフォード車V8エンジンなどを触って米国技術水準の高さを知り、米国と開戦したら日本が負けると確信。鉄道模型を撮影するため、ライカなどカメラやムービーの趣味もはんぱじゃない。趣味からの知識を生かそうと東京工業大学の機械に進学。
こういう生活のなか、慶応の「独立自尊」「人のうえに人をつくらず」教育にも影響されて、人間が他の人間を支配することが大嫌いになった。だから、封建制、国家主義、全体主義、社会主義、会社主義、滅私奉公も大嫌い。学生時代は、徴兵制、天皇制、世襲制を公然と批判して、周囲からボコボコにされた。そこで、自尊心が許さないほどの辱めを受けたりしたら、切腹しようと腹をくくり、懐に短刀をしのばせ白無垢を下着として着るようになりました。
趣味の短波受信機で海外放送も聞いていたので、日米の開戦を8ヶ月前に予測して、趣味の諸道具類や、買い集めたヤミドルを岐阜に疎開(これが戦後におお化け)。
しかし、1942年、東工大を半年早めて卒業させられ、千葉の重砲部隊に徴兵されてしまった。そこで必死に考えたのは、傷痍軍人となること。重砲の移動時、その車輪に、わざと足をひかせて怪我をした。痛ーい!!しかし幸運中の不幸で骨折しなかった。重傷を装って陸軍病院に入院していたら、仮病を調べる検診がはじまった。
そこで例の短刀を出し、自説の演説をして切腹しようとした、そのとき検診の篠田軍医に止められた。
「お前はどこの学校だ」「東工大の機械です」「俺の弟と同級か」「篠田君のお兄さんですか」「お前の言うことは良く分かる、ちょっと待ってろ」。
同室の20人は、どこかに連れていかれ、信太郎だけが病室に戻り、そのあと除隊となりました。3)原氏の仕事と貢献
慶応高等部で、コクヨの社長、会長となる友人が居たことなどの縁で、コクヨに入社。刻苦勉励は嫌いだが、報酬は欲しい。便利な機械を考えだせば、人の何倍もの働きになるだろうと思案して、いろいろの事務機を考案した。
もっとも社業に貢献したのは、自動倉庫。鉄道模型で培った、知識と技能を総動員して、いまや世界的に普及している自動倉庫システムを考え出した。ゴロゴロ走る搬入搬出装置などの研究は楽しい。いっぽうで倉庫業務は、汗みず流して疲れる大変な仕事だから、この労働を軽減することは、「自分がやりたくないことを人にやらせない」という原氏の信念につながる。これも自動倉庫発明の動機となった。こうやって稼いだ金を社会に還元したいと、退社後、有能な若い人たちを支援したり、各国の優秀な技術を紹介したり、そのアライアンスを仲介したりする財団を作って楽しんでいる。これに協力してきた息子さんの原丈人さんは、米国で数々の情報通信企業を成功に導いて、著名なベンチャーキャピタリストとなった(原丈人さんのことが、2008年1月14日の読売新聞、編集手帳に取り上げられていたのを、たまたま発見。また有名なイトイシゲサトさんのサイトに原丈人さんの洒脱な紹介ページがあった。)。
私がどんな風に考えたところで、世界はその原則に従って拡大していくのだ。私が何を考えたところでアラブ人は石油を掘りつづけるだろうし、人々はその石油で電気とガソリンを作り、深夜の街にそれぞれの欲望を追い求めつづけるだろう。
最初のプレーヤーは、シルバーで、カセットが一枚入るタイプのラジオだったな。俺が気に入ってたのは、10W(ワット)のヤツだな。ワット数ってすごい大事
だったんだぜ。「おい、お前のラジオは何ワットだ?」とか言い合うんだ。その後は、テープが2本入るタイプのプレーヤー。それで、自分でテープを作ること
ができるようになった。たくさんのテープから、90分とか60分とか、とにかく一番長いテープを作成する事が当時の目標だったよ。友達のテープを録音した
り、あとは、もう最高レベルのテープは俺んちに来ないと録音してやらねーぞ。とかね。俺が当時やってたのは、俺とクルーのためのテープを作る事。それを、
みんなで聴いてると、このトラックのビートはヤバいな、とか、このライム(韻)がクレイジーだな、とか気付き始める。公園なんかで、みんなで聴くんだ。そ
うして学習する。その一体をアートとしてね。リリックを書く事、プロデュースする事、DJする事。
カセットテープと、今の時代のデジタルの違いに付いて言おう。カセットテープは、お前の鼻に近づけて、匂いを嗅ぐことができるな。独特な匂いだった。ワイル
ドな感じ。テープをひっぱり出して、その素材をこう、じっと見てる。そうすると片面は茶色で、もう片面は黒い。そこに音が入ってるわけだ。匂い嗅いで、
触ってみて、こう指でこすってみると、すんげーサイエンス(科学)じゃねーかって思うわけだ。こりゃガチだわ。ってな。電池が無くなったら換えて、って今はどーか知らないが。電池が死んだら、冷凍庫に入れると生き返ったりするって信じてたぜ?アンテナがぶっ壊れたりしても、みんな治し方知ってた。カセット
いれるドアの部分が壊れても、入れ方知ってた。テープが速く回り始めちゃったら、絡まる前に止める、とかな。そういうライフスタイル、全部無くなっちゃっ
たな。
親父は俺に言ったよ。自分自身が、自分のボスであれ、ってね。誰かの為にやりたくない事やって、タイムカード打ってなんて、やるなよって。俺の両親は偉大だ。そういうことを、俺にネジ込んだわけだから
ね。正しい事をしろってね。
