鰤の頭が無造作にぶつ切りにされてたまたま目が上を向いていた、その目と自分の目が合ったから、プラスティックのパッケージを同じくプラスティックの籠に入れる。美しい心の持ち主みたいな澄んだ目とそのまわりの切断された輪郭線から類推される大きさできちんと成熟したまともな鰤だとわかる。東京のスーパーマーケットでは出会ったらすぐ籠に入れるべきものだ。豪快なかたまりが三つ入って二百円もしない。
踵を返す。ピーマンとしめじだけをしかたなしに選んだ生彩を欠く青果の場に戻る。大根は今ひとつ発育のよろしくない、もちろん葉もろくについていない、そのくせ安いともいえない、ぼんくらな連中しか残っておらず、やむを得ずそれを籠に加える。この世界は良い鰤アラを手に入れた平日午後十時半にすてきな大根を残しておいてくれるほど私に甘くはない。
台所で生姜を点検し皮を剥がす。たわしで軽くこするだけで済む育ちのいい生姜ではなかった。薄切りから千切りをつくる。鰤によっては生姜なしでも感じよく仕上がるけれども、今日のは持ち運んだらパックの内側が鮮血に染まる血の気の多いやつで、血の色は申し分なく鮮やかだったけれども、それなりの下ごしらえと薬味を必要とする。
ぐらぐらに湧いたたっぷりの湯を、薄い塩をまとった鰤にかける。向きを変えてざばざばかける。そのまま冷たい水と指先で癖の強そうなところを洗い落とす。なにもかもすばやくやらないと台無しだ。大根の皮を厚めに剥く。自分だけが食べるのだから面取りなんかしない。
湯がもう一度湧く。料理用に買うのだけれど料理酒より安い日本酒をざばざば入れる。黒砂糖をひとかけ落とす。鰤と大根と生姜をぼんぼん投げこむ。煮る。醤油をどぼんと入れる。料理をもう一段落レベルアップしたいのだったら計量するしかないね。三年ばかり前にそう言われたことを思い出す。それだから、月に一度もありやしないけれども、計量とやらをする日をつくるようになった。
でも今日はしない。めんどくさい。今日は冬の日の週に一度はやる奔放な「ぐつぐつの日」だ。鍋いっぱいになにかを煮て延々とそれを食べる。レシピなんか見ない。豚ばらと白菜を交互に重ねて酒と塩と白菜の水分だけで煮たもの、残り野菜をみんな細かく刻んで入れるコンソメスープ、ヨーグルトに漬けた骨つき鶏肉とトマト缶のカレー、食べにくいほど大振りの野菜とソーセージでできたポトフ、年に一度だけ練り物のいいのと茹で蛸を買ってつくるおでん、スパイスと香味野菜を正しいレシピの二倍つっこむ粗野なボロネーゼ。鰹出汁だけで炊く蕪は好きだけれどすぐにぐずぐずになってしまうから鍋いっぱいはつくらない。
封筒に銀杏を入れてレンジで加熱し塩を振ったのと葉の縮れたほうれん草のおひたしをつまみながらちびちび飲む。煮物は放っておく。私は、鰤大根で大根の下茹でなんかしないし、鍋につきっきりで灰汁を取ったりもしない。魚や野菜どころか醤油の灰汁まですくいきった煮物なんかなにがおもしろいのかと思う。おまえはこれを食えと皿に残された血合いと魚の鰓の隙間がちらりと頭をかすめる。あいつらはなにもわかっていなかったんだと思う。私は、血の滴るアラだってちゃんと細工して美味しく食べる。台所に立ちつづけて誰かのために灰汁を掬いつづけたりしない。私は粗野に、のんきに、優雅に生活して、その九割九分九厘で憎しみの対象を忘れている。
小説がひと段落したところで覗いてみると鰤と大根と針生姜(というほど細くもないけれども)はひととおり煮えている。煮汁が澄んでいるのでにっこり笑ってスープみたいに少し飲む。悪くない。実に悪くない。火を止める。大根は明日になったらもっとおいしくなるだろう。
