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さらにこちらでは
再読は、物語が一度消費(《むさぼり読み》)されたら、他の物語に移り、他の本を買うことができるよう、その物語を《投げ捨てる》ことを勧める現代社会の商業的イデオロギー的慣習に反した操作であり、それはある周辺のカテゴリーに属する読者たち(子供、老人、教師)にしか許されていないが、ここでは、再読はただちに提起されている。なぜなら、それだけがテキストを繰返しから救うからであり(再読を軽んずる人は、到る所で、同じ物語を読まざるを得ない)、テキストをその多様性と複数性の中で増殖させるからである。
…再読は、最初の読書が基本的で、素朴で、現象的な読書であって、後はただ単に《説明》したり、知的な解釈を加えたりすればよいだろうというような思い上がり(あたかも読書にはじめがあるかのような、すべてがすでに読まれていなかったかのような。最初の読書など存在しないのだ。たとえテキストが、説得的というより見世物的な技巧であるサスペンスといういくつかの操作子 opérateur によって、そうした幻想をわれわれに与えようと努力するとしてもである)を認めない。
ロラン・バルト 「S/Z バルザック『サラジーヌ』の構造分析」
「IX 読書はいくつあるか」
沢崎浩平訳 みすず書房 1973年
(via q-q-q)
“「いま低賃金でまわしてる産業は全部、近いうちに富裕層しか利用できない(下手したら会員制だ)ものと最低限の物しか供給されない一般向けに分化する」これをみんな実感がない。でも必ず来る。”
— 性格色覚W異常フニクラ@人類は麺類さんのツイート (via gkojax)

